エピソード④まつじさんの話
写真がなくて、イラスト描いてて、まつじさんってどんな顔してたかなあ、と思い浮かべながら、でもこんな感じ!となりました。
まさにイメージ通り。
まつじさんは、10年ほど前に亡くなりました。
70代で、後遺症の少ない脳梗塞の患者さんでしたが、そろそろ認知症が始まっていましたね。
でも、この年代の男性には珍しく、おしゃべりで陽気。通っていたデイサービスでも人気者だったそうです。
とにかく、この方を思い出すと、愉快な話ばかりが浮かびます。腕白だった少年時代の話、集団就職で東京へ出てきてから、横浜で小さな工場を立ち上げ、その会社がバブルで面白いほど受注があり、今でも家で人を雇って仕事を続けていること(社長さんです)、戦争中は小学生で茨城の山の中で農家をしていた実家に東京からの疎開児童を預かり今も交流していること、などなど。
茨城の地図でもなかなか見つからないほど山奥の、結構大きな農家の次男坊として生まれたまつじさんの実家の話は、とくに忘れられません。
田んぼも畑もありましたが、そこで栽培するのは、全て家で消費するための作物、牛や馬は耕作のため、そこで生活する祖父母、両親に子ども3人、全て家の担い手です。味噌や醤油、油だって手作り、綿も栽培していて紡ぎ、染色だけは他に頼むそうですが、家で織って反物にした布は家族全員の着物や布団になります。まさに自給自足の生活です。例外は炭と卵で、炭小屋で焼いた備長炭は貴重な現金収入で、卵も里から村に登ってくる担ぎ屋のおばさんが買い取って、干した魚などになったそう。
1里(4キロ)離れた尋常小学校に行くと、
「農家の子は皆んな着物、勤め人の親の子は洋服だから、羨ましかったよ」
そんなまつじ少年は、おばあさん子でした。
「その婆さんが自慢だったの。村の寄り合いはよくうちでやったんだけど、中心に座るのは、爺さんじゃなくて、婆さん。(たしかおじいさんは入婿)婆さんは村の長老であり、ご意見番でなんでも知ってた。村長さんも一目置く人でね。俺はいつもその膝の中に座ってたよ、偉そうに。(笑)」
おばあさんは、自分の部屋のなかに所狭しと薬草を干していて、時間があれば薬研で薬を調合して、村の人に渡して(売って?)いたそうなのです。健康相談にも乗っていたそうなので、村の(無医村)の心強いお医者さんであり、薬剤師といった人だったのでしょう。いや、シャーマンか。(o^^o)
このおばあさんの話は、まつじさんの話の半分を占めるくらい沢山のエピソードがありましたね。ああ、私はまつじさんの一代記が書けそう。^o^
ある雨の日訪問すると、まつじさんは家の中を散歩していました。歩かないといけない、と言われていたから、ズンズン歩いています。
後ろからついていくと、階段を降りていくところ。(まつじさんの家は2階に玄関があり、1階に小さな工場があるのです)
トトト、ドッシーン!まつじさんは階段を、一回転して落ちてしまいました。
目の前の出来事は、様々な思いを私の頭の中に巡らせました。
(やばい!責任問題!骨折!入院!救急車か!)∑(゚Д゚)
「まつじさん!大丈夫ですか?」
駆け寄ると、まつじさんは身動きしません。
台所から奥さんも出てきて、
「どうしたの?」(この方も動じません)
しばらくして、むっくりとまつじさんは起き上がり、
「えへへ、びっくりしたろ?」
なんと無傷でした。驚かさないで〜!ホントにビックリした!(・・;)
そして、まつじさん宅に通い始めて5年目の春、訪問すると家の前に黒塗りの車が停まっていました。
奥さんが出てきて、
「あれまあ、動転してて、先生の所に連絡するの忘れてました!一昨夜、救急車で運ばれて亡くなっちゃったの!」
えー!嘘!(;o;)
病院から戻ってきたまつじさんは、棺に入って和室に寝ていました。本当に眠っているようでした。
まつじさんは、大好きな大福を喉に詰まらせて亡くなったのです。
「私が洗い物をしてて、後ろのテーブルで大福を食べてたんだけど、振り返ったら倒れてて・・」
「いやー、面目ない。こんなカッコ悪い死に方しちゃったよ」
と、まつじさんの声が聞こえてきそう。
そういえば、まつじさんは、いつも一口で和菓子でもなんでも食べてたなあ。
大好きだったよ、まつじさん。会えなくなって寂しいけど、天国でおばあちゃんと仲良くね!