昨年「ヨネさんの話」を上げて、その2段目。
懐かしい患者さんの話をします。ちょっと長くなりますね。
先日川崎の自転車さんに行き、その裏に住んでいたヒロさんのアパートに寄ってみました。
当時そのアパートの前には、ヒロさんが巨体を乗せて走っていた小さな赤い自転車が寂しそうに停めてありました。もちろん今はありません。
ヒロさんは私と同じ年、当時50代の元大工さん。独身でしたが、床を張る職人として弟子も抱える大工の棟梁でした。
頑丈な身体に猪首の彼は、車を運転していた時に後ろからぶつけられて、本当ならすぐに医者に行って首をサポートしなければいけなかったのにそのままにしていたところ、またぶつけられた。彼は「後縦靱帯骨化症」という病気になり、首から下がマヒしてしまったのです。
治療の依頼はヒロさん本人からでした。イタズラ電話かと思うほど、声が聞き取りにくかったのですが、電話口の人の必死さが伝わって、彼に会いに行くことにしました。ヒロさんとは同じ年ということもあって、最初から気が合い、なんでも話し合える仲になりました。(^^)
話し方も慣れれば、私が人に通訳するほどに。
「良かった、味方ができた」と彼は言いました。
彼はひとりで生活し、衣食住をすべて介護に頼っていましたが、生活の管理は自分でしていました。食料は生協の宅配で、1週間のメニューを全て立てて、作るのはヘルパーさん。1週間に1度の入浴サービス、排泄、掃除洗濯、病院への送り迎えなど朝昼晩とヘルパーがサポートしていました。
それまで棟梁としての収入も貯蓄も、住んでいたマンションも手放し、彼の生活を支えることになったのは、区の生活保護と障害者1級の年金です。
ヒロさんは、とても気のいい人だったので、ヘルパーさんも彼の応援団でした。彼も買い物を頼むと、余計に買ったお菓子を「子どもにあげて」と渡したりしていて、私も時に焼き芋を頂いたりしましたっけ。(o^^o)
そんな彼の生活に影をさしていたのは1人の人物と、1つの組織。
1人は実の兄さんで、ヒロさんのマンションを貰い受けた人でしたが、やれローンが高くて生活が厳しいだの、高いメンテナンスをしたのにまだ借り手がつかないだの、お金のことばかり言いにきました。私がマッサージしていると、
「いい身分だな。俺もマッサージしてもらいたいよ」と、彼の気持ちなどお構いなしに嫌みを言うのです。一度私が反論した時、後で、
「お願いだから、兄貴に口ごたえしないで。色々世話になってるから」
とヒロさんに頼まれました。この人は最後まで嫌な人物でした。
そして、もう1つの組織というのが、生活保護の担当者とお役人たち。彼らの目的はひとつ。
「区域からこの金食い虫を追い出す」こと。
彼らはあの手この手でやってきました。
ヒロさんの願いは「この家で穏やかに暮らすこと」だけなのに、何かと施設に入れたがりました。しかも、神奈川県の遠方の施設で、どんなにヒロさんが拒んでも、兄貴とつるんで来ては「一回体験してみないか」と。
とうとう根負けしたヒロさんがその施設に行ってみると、
「何にもない部屋で、テレビもないんだ。飯の時間だけ食堂で、食いたくもないもの食って、
あとは壁見てるんだ。頭おかしくなるよ」
と帰ってきてから言いました。
以来、ヒロさんはより一層一切の施設行きを拒むようになりました。無理もありません。
ところが、役人は次の手に出ました。
「この人間は、この区ではみることのできない大変な障害者」というレッテルを貼ってきたのです。
どういうこと?この疑問には、私が動きました。当時仲の良かったケアマネに頼み、その人の知り合いの生活保護相談員に聞いてくれたのです。すると、
「彼は体重が重過ぎて、車椅子移乗が困難。彼を乗せる車椅子がない。また男性の介護者を希望していて、そういう人がこの区にはいない。」など、色々書かれてあったそうです。
嘘八百です。実はヒロさん、確かに車椅子が狭くなり、医師からも痩せるよう説得されて、涙ぐましいダイエット作戦を決行していました。結果、目標の70キロを達成していたのです。
その話を、役人たちの話し合いの席でヒロさんがすると、全員蒼白になったそうです。
「犯人探しをするつもりですか!」
と叫んで退散しました。
この日以来、ヒロさん追い出し作戦はなりをひそめました。
でもでも、穏やかな毎日が続き、その夜、私の施術が終わって帰る時、
「蓮根を唐辛子で炒めてもらったんだ。うまいから食べてみて」と言われて、少しつまむと、とても美味しくて、
「私も今晩蓮根買って作ってみるよ」
と私。じゃあ、と帰ったその晩。
ヒロさんは、落ちたスプーンを拾おうとして、無理な体勢になったまま、絶命していました。
57歳。悔しくて泣きました。
ヒロさんは、一度声を上げて泣いたことがありました。昔の話をしていて、「俺の貼った床は頑丈で、評判良かったんだ。・・車の衝突さえなかったらなあ。」それから号泣したのです。
患者さんに、たくさんの話をしてもらおう、その方の背景や歴史をいっぱい知ってから、その方に寄り添った施術をしていこう。私が、マッサージだけでなく、その方の力になり、困ったこともできることはサポートしたい、と強く思うようになったのは、その頃からかもしれません。